不幸な悪魔の物語 


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 率直に言おう。俺は魔族だ。具体的にどんな魔族かと言うと、悪魔だの吸血鬼だのじゃなくて、狼人間みたいな獣人に分類とかされている。ちなみに人間に近い姿の時は銀髪サラサラな超美青年で、獣の時は銀に黒の斑紋がある豹に似たカッチョイイやつになる。
 魔族の住む魔界でもかなり美形な俺が、何でどーして不幸な目に遇ったのかは魔王でも分からないだろう。住んでる街ではそれなりに強くてモテてて、幸せな魔族ライフを過ごしてたのにな。ほんとに不運だったとしか言いようがねぇよ。

−不幸な悪魔の物語−

 不幸の始まりはある日の飯の時間からだった。ちょっと欲を出して久々に人間でも食おうかと、人間界の見知った村まで行ったんだ。少し前にここらで旨そうな赤ん坊を見掛けていたから、そろそろ「恐怖」も覚えて食べ頃だろうと思っていた。
 その赤ん坊は微量の「聖気」を持っていた。触れたからって俺くらい強い魔族なら何てことない、でも闇で塗りたくって食えば最高に旨い、天使共と良く似た力を備えていた。気配を覚えてればこんなの探すのは簡単だ。真夜中の村を少し歩くと、ひんやりとした独特の「気」にすぐ気付く。
 ああ、見付けたと思わず口元が緩んだ。馬車の轍もくっきり残る道は、村外れの屋敷に続いている。
(へぇ、金持ちのガキだったのか。過保護に育てられたんなら、盛大に泣きじゃくってくれんだろうな)
 にやりと笑いながら、獣姿の俺は屋敷へ忍び込む。近付くたびに肌を這って纏わり付くような聖気が強くなり、心は逃げ惑う天使を思い描いていた。どうせ食い散らかされるのに、奴らも必死に抵抗するんだ。何て哀れで愛しい我等が獲物達だ。ガキも同じように逃げたがるかな。
 痛くなんかない、むしろくすぐったくて気持ちいいくらいの「気」だった。ドア越しに感じる気配に唾を飲み、俺はそっと体を霧に変えた。そのまま閉まったドアの隙間を通り、難無く部屋へ侵入する。しかし、獣姿に戻ってからあることに気付いた。
(あらら、ガキはなかなか侮れねぇな。感付いたか? ガキはもぅ寝る時間だろうが)
 広い部屋の壁際に、天蓋なんかが付いた豪華極まりないベッドがあった。そこで布団に埋もれながら、ちっこいのが座ってこっちを見ている。何かいるのを感じて探していたんだろう、通りで途中から聖気が俺にばかり向いていたわけだ。
 飴色とでも言えばいいか、赤みの強いくるくるの金髪はあちこちをリボンに結ばれ、丸い目と合わせりゃ人形みたいだった。天使の聖気に天使の容姿。旨そうな御馳走が恐怖に脅えきった顔で俺を待っている。
 絨毯を踏み一歩前へ出た。澄んだ銀の毛の合間から、長い爪をちらつかせる。すると、ちっこいのは慌てて首を横に振り始めた。拒絶か、いい反応だ。
 毛に覆われた長めの耳をぴくんと動かして、ガキが鋭く息を吸うのを聞く。次の瞬間、一気に俺は飛び出した。絨毯の毛を引き千切った爪がガキへ突き刺さる……手前で止まった。
(はっ!? おいっ! 何だこれ!!)
 勢いの付いていた体もそのまんま突っ込んだのに、ガラスにでもぶち当たったかのように腕一本手前で止められる。戸惑いと怒りに唸り声を洩らすと、恐怖に染まった青い目が涙を一杯に溜めてうるんだ。こいつ、泣く気だなっ!?
 ザコな人間なんか集まったところで何てことない。だが、ぎゃーぎゃーうるさいのは嫌いだ! 早いとこ結界だか何だか分かんねぇこの透明な幕を破ろうと、後ろ足で立って両手の爪を食い込ませた。
 ガキを守るために誰かが張ったのか、ガキが自らの防衛本能から張ったのか、どっちにしてもそう強いもんじゃねぇ。爪の先が結界に入る。さらに押し込み鼻をねじ込むと、ガキとぴったり目があった。奴は涙をぼろぼろこぼしながら、突然かん高い声で泣き始めた。
「ぃやーっ!!」
(あーうるさい!)
 黙れば良し、泣き続けるなら食い殺すまで仕方ない、我慢だ。だが、とりあえずイラッときたんで豹に似た口でがうっと吠えて脅かしてやった。
 ……その時だ、結界が強烈な光を放ち、魔族の俺は驚きと当てられた聖気に吹っ飛ばされた。
(なっ!? こんな強い力っ嘘だろ!?)
 殴られたような痛みが顔面を襲ってくる。鼻が潰れると思った時には、すでに体が浮遊感に呑まれていた。これはやばい。逃げろと理性が警鐘を鳴らすが、次の瞬間には背中がぐにゃりとしたものに突っ込んでいた。
(人形っ?)
 目に入ったのは茶色いくまのぬいぐるみだ。部屋の壁際まで飛ばされ、くまと目があったと同時に意識まで飛ぶ。視界が黒くなる中、頭の後ろがやけに痛いと感じた。

 ぼんやりと霞んだ記憶の中で、まだガキがぴーぴー泣いていた。遠くに人間の気配がざわざわと渦巻いていて、聖気が揺らいでいるのが分かる。倒れた俺の横から何かがなくなり、力の抜けた体が傾く。
(あれ……? 今の人間、だよな? 俺を怖がんねぇのか? あぁ、鈍い大人か。見えてないんだな)
 ふと湧いた疑問はすぐに散ってしまった。ガキが泣くのを止めたんだ。親だか使用人だか知らないが、大人になだめられてぐずりながらも静かになる。
 強烈な聖気に当てられたのに、思いの外ダメージは少なかったようで、腕は簡単に上がってくれた。しかし、手を握ろうとしてもうまくいかない。ああ、獣姿なら当然かと思い当たって、握るのを止め潰れそうに痛い鼻をこする。俺の赤い目に、へんちょこりんなものが映った。
「……あ……な」
 言葉にならなかった。俺の手は茶色の毛むくじゃらになってやがる。掌はベージュの柔らかな丸い布が縫い付けてあって、白い布で爪のようなものが三つ付けられている。よく見れば足も茶色の毛むくじゃらだし、体全体が毛糸玉みたいにもじゃもじゃだ。
 銀の毛並の美獣な俺はどうした? あまりのことに呆けていると、ガキを寝かし付けることに成功した人間共が、本当に俺に気付かないのかさっさと部屋を出ていった。だが、それは今どうでもいい。
 ゆっくりと四ん這いになってから起き上がる。そのままとぼとぼと部屋を歩き、ガラス窓に近付く。周りの物がやけにでかくて、歩く速さも尋常でなく遅い。悲惨な現状が手を振って待ってる気がして、心の準備になればと自分がどうなっちまったのか、できるかぎり最悪なことを想像してみる。
「きっと聖気にやられて毛が焦げたんだ。で、ちりちりパーマみたいなことになってんだ……」
 窓に辿り着きガラスを覗く。映ったのはくりっとした目の、丸い耳の、その、くまのぬいぐるみだった。
「……ま、ぢかよ。何で人形? 魔族って光にやられると人形になんのかっ? いや、ないない。……じゃあ俺はどしてこんなことにっ?」
 ガラスに頭をぶつけながら、呪文唱えるみたいにぶつくさ呟くが、くま顔に変化があるはずもない。涙も出ねぇし、どーしろと言うんだ……。
 悲壮感に沈み込んでいると、後ろでばさりと布団を引っくり返す音がした。
「アヤナ」
 かん高いとは違う、涼しい鈴みたいな声が名を呼んだ。小さい足音が近付いてくるもんだから、何事かと振り返る。ちなみに、俺は「アヤナ」ではない。
 くま顔に表情が出てくれてるなら、さぞ嫌な顔になっていただろう。金髪くるくるな小娘が目をきらっきらさせて寄ってくる。毛足たっぷりの絨毯にぺたりと座り込んで、「何してるの?」って感じにくま顔を覗き込まれた。
 そうか、このくまが「アヤナ」なんだな。不思議なことに、こんな近付かれても聖気がまったく感じられない。さらに、奴が俺の魔気に脅えることもなくなっている。
 恐らくぬいぐるみの体が魔族の俺を包んで「気」を遮断してるんだ。聖気に当てられて多分俺は弱っている。形を保つことすら危うくなっている。だから、無意識に入れ物を求めてくまに憑いちまったんだ。つまりはぬいぐるみが器、鎧になってるってわけか。
 目の前に座り込むガキを下からギンと睨み、俺はふにゃふにゃな爪が生えた手を握る。
「ふっふっふっ……なるほどな。このガキ、よくもやってくれたじゃねぇか。だが、お前の聖気なんかもう食らわねぇぞ!」
「っ……アヤナっ?」
「違うなっ! お前の可愛いアヤナの体はこのゼクト・インスパイア様が頂いた! 覚悟しろよ小娘っ!」
 馬鹿らしいセリフだとか思うなよ!? 俺はいたって真面目で真剣だっ!
 殺れる殺れないは関係ない。とりあえずここまでやられた仕返しのために、握った拳を突き出し飛びかかった。打撃力はなくとも腹いせくらいにはなるだろう!
 だが、弱りきった俺は「きゃー」という微妙に楽しそうな叫びと同時に、ぽーいと弾き飛ばされ床に落ちた。くそったれ、ここでまた意識までどっかに落としちまった。

 目が覚めると朝日が眩しかった。ああ、光を浴びたからって、脆弱な吸血鬼とは違うから、俺はへでもない。でも嬉しくないな。弱りきった魔族にとっては危機的時間がやってきたんだ。
 ふと見ると、すでにガキは起きていた。メイドと思しき女に着替えを手伝われている。というか、着替えさせられてる。俺はといえば、カーテン全開、朝日がさんさんなベッドにほっぽられていた。大して動いてないから二人共気付いていない。
(……今人間に見付かるのはまずいな。この状態じゃ戦えねぇ。でもガキにはバレてるはずだしなぁ……。とりあえず人形のふりしとくしかないのか?)
 外にだけは持ち出さないでくれと、心の中で真剣に祈った。月を頂く夜が俺達魔族の時間であるように、太陽が輝く昼は神族……天使共の時間だ。昼は魔が弱る時間で、敵方の聖が強まる。こんな状態で天使がうようよしてる外になんか行きたくない。
 どうしたもんかとぼんやり天井を見る。身体的・精神的に両面からかなり弱っているようで、元の姿に戻れる気配も魔術が使える気配もまったくない。普段なら一晩でそれなりに回復してくれるってのに……。
「さ、お嬢様。朝食の御用意が整っていますから、参りましょう。今日もアヤナを連れて行きますか?」
 メイドがすたすたやってきて、ぐったりしている俺を取り上げる。ヤバイと緊張しながらも騒ぐわけにはいかず、大人しくぬいぐるみのふりを続けた。すると、ガキが嬉しげに駆け寄ってきやがった。
「アヤナじゃないの」
(お、別のヤツを御指名か? そーそー、ちょっとほっといてくれ)
「ゼクよ。昨日ゼクって言ってた」
(……。は!?)
 固まったまま、自分の名前……っぽいものを呼ばれてくま顔がこわばる。何口走りやがったこのやろ?
「まぁ、このくまちゃんはアヤナではなかったのですか?」
「うん。ゼクト・エンパイアって言ってたの。昨日お話ししたの」
(あああああ……馬鹿! ぬいぐるみが喋るはずないだろ! 信じるなよメイド! ガキの戯言だ! つーか名前間違ってるっエンパイアじゃねぇ、インスパイア!)
 本当はバレるんじゃないかとびくびくしてた。だが、世は常識の力を持って俺を救ってくれる。メイドは困惑していたようだが、やはり人形が喋る訳がないと上手いことかわしていく。
「では名前を間違っていたのですね。ごめんなさいくまちゃん。今日からはゼクトと呼ぶわね」
 良く出来たメイドだぜ。子供目線に合わせて、一緒に「ごめんねゼク」とか俺の頭を撫でてくる。そして、二人に両手を掴まれて、俺は朝飯の席に連行された。

 その日から本格的な俺の不幸が始まった。くまになってからの回復力は尋常でない低スピードを維持し、何日かじっとぬいぐるみのふりを続けたが何の変化もないままだった。俺は長期戦とか大嫌いなんだ。だから、くま生活三日目の朝早くに、ガキのベッドから抜け出した。この時を逃せば、一日中片時も人の目がなくなることはない。
 自分がちっこくなっているせいであれこれ苦労はしたが、飛んで跳ねて部屋を脱出! 人気のない廊下をひたすら外へと走った。窓から出るってのもありだったんだが、この手じゃ鍵までは開けらんなくて、俺はどっか裏口かかって口のようなとこを狙ってた。夜中は閉まっていても、今ならきっと開いている。
「ここから出てもこの状態じゃ魔界には帰れねぇだろうけど、ガキの相手はもーうんざりだっ。天使共と戦った方が有意義だろっ俺魔族だしっ!」
 とりあえず、物陰を選んで裏口がありそうな定番の場所、調理場までやってきた。すでに何人かが仕込みなんかのために働いている。だが、思った通り戸口はあれこれ出入りするのに開けられていた。大きくなんか開いちゃいないが、今のぬいぐるみサイズなら簡単に抜けられる。
 目一杯に気を遣いながら調理場を進んでいく。ここのコックも朝食のためにわざわざ焼きたてのパンを出してくれんだ。ガキが起きる時間を計算してんだろう、時計を気にしている。
「……そうそう、明日のこと忘れてないわよね? いつもより夕食は豪華にね」
 ふとそばを通った偉そうなメイドが、コックをからかうように声をかけていった。何だろう、客でも来るのか? 小さく引かれた興味に、調理場中場まできて足が止まる。食器棚の一番下、皿の陰からコックの足を見つつ耳を澄ませる。
「忘れてないよ。久し振りに旦那様がいらっしゃるんだ、いい肉を頼んである。リディアお嬢様も喜ぶだろうな。デザートには好物のベリータルトを出そうと思っているんだ」
 お、「リディア」ってのはあの小娘の名前だ。よく自分で自分をリディって言ってたしな。旦那様ってことはここの当主だから、あのガキの父親か? そういや、奴の親は見た記憶がねぇな。
(父親も母親も、娘に三日もべったり張り付いてんのに会わないなんて……人間ってそんなもんだったか?)
 偉そうなメイドとコックに、若いメイドが何だかあれこれ聞き始めた。そいつは新人だったらしく、俺が気になったことを察したかのように、次々質問していく。好奇心旺盛なヤツ。好都合だぜ。
 奴らの会話から、あのガキのことが大まかに分かった。どうやら父親は人間界の何とかって国で政治なんかに関わる役職持ちらしい。その仕事のために都会にいると。母親も世間体だのしきたりだので旦那の仕事に付いて回ることが多くて、両親は揃って都暮らしなわけだ。
 で、娘はと言えばこんな葡萄農園がどっさりな田舎で暮らしてる。こっちの理由は体の具合のせいだそうだ。人間はここのところ薪より石炭を使うことが増えている。空は灰色、水はドロドロって地域もあると仲間の魔族が笑ってたが、ここのガキはそれに耐えられる体に生まれてこれなかったらしい。
 肺が悪いって話だが、聖気が強いのも災いしてんだろうな。汚れや澱みを神族は嫌う。力の強い奴なら嫌なもんは町ごとでも浄化しちまうが、あのガキは所詮人間だ。汚れに敏感ではあっても大きく汚れを祓うことはできず、逆に侵食されていく。でもなぁ、特訓すりゃ強くなりそうだぞ。俺を吹っ飛ばしてこんなにするしなぁ。
 明日のお帰りはひと月ぶりだから、お嬢様も心待ちにしているんだよと、優しそうな顔でコックが言う。だよな、人間の親子ってあのガキの年なら大体一緒にいるよな。……ガキが寂しがるもんな。
 食器の裏に隠れて、俺はいつの間にか膝なんか抱えてた。魔族ってのも家族とか一族はある。でも、そこにいない奴もいる。もっと大きく、種族ってのなら誰でも分類されてるが、俺なんかは闇から生まれてきたから家族はない。仲間はいても、いつもそばにいてくれる誰か、甘えられるような誰かはなかった。
(生まれた時から独りって奴の方がほんとは多いんだろうけど、血を繋ぐ一族は人間みたいな家族を持ってる。魔族のくせに優しさだとか愛情だとかって、馬鹿みたいなこと言うんだよな。でも、羨ましかったのかな、やけに親といる奴って目に付いてた)
 冷酷非道、情けも容赦も、血も涙もないと思われてる魔族がだ、仲間だの家族だのには時々甘くなる。物好きは補食対象の人間にすら好意的に接する。天使の真似事をしてんのか、魔族として足りてないのか俺には分からないけど、利の優先が第一にならない奴もいるんだ。
 もちろん人間が考えるイメージ通りの魔族は多いし、人間の前ではそう振る舞うのが俺達だ。それなのに、俺は独りに物足りなさ……いや、寂しさを感じている。
 憧れてるのは優しさだの愛情だのなのかな。単純に他人のものが欲しいって強欲なだけかな。それとも本当に、俺は物好きの一人なのかな。
 暗く暗く、意識が闇に近付いてる気がした。このまま魔界に帰れたら、魔力が回復したら、思いきり暴れてやろうと思った。人間なんてごみのように蹴散らして、魔族だって食い散らかしてさ、俺の一部にしてやるんだ。本当に、冷酷非道の極みを目指しちゃったりなんかして。馬鹿みたいに暴れ回りたい。
 積み重なった皿に頭を着けて、静かに深く息を吸い吐き出す。今暴れられないことに舌打ちをすると、不意に体が傾いた。支えがなくなって、そのまんま倒れる。
「あらやだ、ゼクじゃない」
「何だ?」
「お嬢様が隠したのかしら。お皿の裏からぬいぐるみが出てきたのよ」
 メイドが驚いたって顔で見てるが、俺だって十分驚いてる。朝食に使う気だったんだろう。皿をコックに渡して、メイドは俺を引っ張り出した。とりあえずぬいぐるみのふりだ、これは忘れちゃいけない。
「リディアお嬢様のお気に入りだろう、それは? 何でこんなとこに?」
「分からないわ。でも、最近はずっと放さなかったのにおかしいわね。お嬢様ったらつい何日か前にこのくまの名前を変えたのよ。それから他のお人形はほとんど構わなくて」
「アヤナだったか?」
「今はゼクなの。くまが名前はゼクト・エンバイアだって教えてくれたんですって」
(何度も言わせるなインスパイアだっ!)
 いらっとくる連中だな! 指に噛み付きたくなるのをこらえ、くたくたと揺らされておく。コックは不思議そうに俺を見ていたが、改名事件はお嬢様の気まぐれで処理されたようだ。
 その後、捕獲された俺はガキの元へ強制送還された。くそぅ。

 何となくもやもやした気持ちを抱えて、俺はガキの部屋へ連れ戻された。部屋に入ると、とりあえず珍妙な光景がそこにあった。メイドが、床に這いつくばっている。
 こっちのメイドが妙な顔で妙な奴に声をかけた。妙な奴は何かを探していたようで、振り返った途端に「あぁ!」と声を挙げる。良かったじゃんか、探し物が見付かった?
「お嬢様っ! ありましたわ!」
 俺がなくなったってガキが騒いだらしい。赤っぽい金髪の小娘が駆け寄ってきて、メイドに持っているくまをせがむ。メイド二人に微笑ましく見守られながら、俺は鬱陶しい奴に返還された。
 不自然にならないようそっと顔を覗くと、ガキはえぐえぐと泣いていた。それは初めて見る「心配」と「安心」の涙だった。喉を絞められたように、急に息が吸えなくなる。
(あ? これ、何だ?)
「調理場に隠れていたんですよ。見付かって良かったですわ」
「本当に。リディアお嬢様はゼクがお気に入りですものね。さ、朝食が冷めてしまいます。一緒に食堂へ参りましょう?」
 という感じで、またガキに連れ回されることになった。ガキが泣くのをやめた時、つかえていたモノが失せるように喉が通った。首を傾げたって、俺の疑問が解けることはない。今のは一体何だったんだか。

 そうだ。ガキのスケジュールは何気にハードだって気付いた。年齢も見た目もまだホントにチビで、七歳とか八歳とかそこらだろう。だが、午前中は簡単な文字・数字を使った勉強をして、難しいものじゃないが本も読む。午後は楽器、主に弦楽器を練習する。ピアノが得意だ。で、おやつの後は自由に絵を描いたり庭に出たりする。父親の方針なのか、英才教育に近いものを施されている。
 この生活に特別不満や嫌悪はないようだが、見ていると時々つまんなそうだってことにも気付いた。何せ遊ぶ時間はそれなりにあっても、遊ぶ相手がいないんだ。メイドが相手してくれたってお嬢様扱いの延長なら楽しくないだろうし、屋敷から出られずガキ同士で飛び回ることもないし。
「お前、絵は下手くそだな」
 くまになって十日くらい経って、こいつの生活パターンとかも把握した頃だ。部屋で一人で絵を描いてるガキに、つい声をかけちまった。俺自身が暇だったし、ガキも一人お絵書きに飽きてたし、こいつにならもぅ最初の時点で喋るのもバレてたしな。
 スケッチブックのそばに転がっていた体を起こし、短い手足を駆使して立ち上がる。コリを取るように首を振って、真ん丸いつぶらな目で顔を見上げた。向こうもキョトンと目を丸くしてる。間抜け面だ。
「……また喋った」
「おう、当たり前だ。魔族は人間なんかより長生きで賢いんだ。人間の言葉使うなんて楽勝だ」
 とてとてとスケッチブックに近付き、じっくりと壊滅的なセンスの絵を鑑賞する。「実験施設が化学爆発した惨劇の光景」とでもネーミングしとくか。
「楽勝だが、いつでも溢れる才能見せてたらすごく感じなくなるだろ。だから時々しか喋んねぇんだよ。他の奴には内緒にしとけよ」
 適当なこと言って口止すると、ガキは分かってんだか分かってないんだかこくりと頷いた。それを確認してから、俺はそばに落ちていたクレヨンをいくつか集めて回る。ガキもクレヨンを箱に戻し始め、いちいち取りにいく手間が省けた。
 スケッチブックを一ページ捲らせて、ぬいぐるみの山まで移動していく。俺様がナイスセンスな絵を見せてやろうじゃんか。いい暇潰しになるだろう。
「お前さ、メイド以外とほとんど会わねぇよな。つまんなくないのか? 屋敷からちょっと行けば村とかあんじゃん。丁度いい感じのガキ仲間できんじゃねぇの?」
 落ちていたひよこの人形をちょいと引っ張ってきて、黄色のクレヨンで描いていく。ガキは横で膝を抱えて座り、膝の上に顎なんか乗せてにこにこしていた。
「みんなたくさん遊んでくれるし、優しいから平気。おそとに行ってリディがおせきたくさん出ると、父様がお仕事できなくなっちゃうの。……帰ってきてくれるの。嬉しいけど、父様はお仕事いっぱいあるから、リディはいい子にしてなくちゃ」
 そんなのガキが心配してやることじゃねぇよ、と言ってやりたかった。でも、これがガキなりに勉強した中から、周囲の人を見て学んだ中から見付けた答えなんだな。精一杯に空気を読んで、望まれることを察して、我が儘も我慢してんだろう。
 ガキの特権を知らないのか? 放棄してんのか? 勿体ないって言ったらこいつ、何て返してくるかな。
「いい子か。俺はいい子が嫌いだ。現実と規則に縛られて、自由に振る舞う権利を捨てるなんて、つまんねぇ生き方してる奴は嫌いだ。お前なんか特に……」
「リディだもん。お前じゃないもん」
「……。リディ、なんか特に鬱陶しいタイプだよな」
 けっと吐き捨てるように言い放った。結構突き放した言い方だったと思うんだけど、「そう?」と返す顔は何だか楽しそうだった。
 ガキをリディと呼び始めたのはこれが最初だったかな。名前で呼ぶとやけに嬉しそうに笑いやがってよ、がらにもなく照れたりして。懐こい奴は苦手なのに、何となく、いることを求められているみたいで嬉しかった。
 俺の口から出る言葉はどれも切るように酷かったのに、会話が成り立つこと自体を喜んでくれていた。そのことに気付くのには、ものすごく時間がかかった。
「ガキはガキらしく我が儘の一つ二つ言えばいいんだ。俺なんかは親を困らせる悪ガキの方が好みだし、人間は馬鹿だから『手のかかる子ほど可愛い』らしいし? いい子すぎると構ってもらえなくなっちまうぞ。ここらでどーんと我が儘言っちまえよ」
「やだっ」
 そういや、リディからはガキの無邪気さはマヂで酷いってことも教えられた。悪気がない分、悪魔の囁きよりストレートに痛い。描いていたひよこの足が「やだ」の一言でとんでもなく長くなった。そして、それを笑われた。人を、いや魔族を馬鹿にしやがって、こいつちょっと痛い目見た方がいいよな?
 黄色のクレヨンを投げ捨て、俺はリディに飛びかかる。白い布の爪を振りかざし、しなやかだった自分の獣姿を思い描きながら、心では「死ねやガキーっ!!」と叫ぶ。
「やーっ!」
 あー早く元に戻りてぇっ! 殺す気でかかっていくのに、簡単に弾かれるなんてもぉ耐えらんねぇよっ! くま顔でも俺は表情出せてるかな。俺、今泣いてるんだけど?
 リディはまた楽しそうにはしゃぎながら俺を殴った。ぽてんと落ちてバウンドして、そのままの勢いを使って俺は跳ね起きる。そして、自分がかかっていっても無駄なのは嫌ってほど分かったからな、そばにある物を投げて怒りを目一杯に表現した。が、やっぱり遊んでるような楽しそうな反応が返ってくる。
「くっそーっ! リディてめぇっ! 元に戻ったら絶対丸のみにしてやるっ!」
「? 元に戻ったら?」
「そうだ! 俺は高位の魔族で獣人だぞっ!? ホントはお前を食いにきてたんだっ! それなのにこんなくまにされてっ! 魔界にも帰れねぇしっ!」
 久々に駄々をこねた。ばたばたとちっこくなった体で転げ回り、うつ伏せて絨毯を叩いて毛を抜いて。ガキよりガキっぽく、馬鹿みたいに喚く。
 自由が利かないことに酷く苛ついているのを、リディはぼんやりと感じ取ったらしかった。丸耳の付いた頭に小さな手が触れて、そっと撫でていく。「おうちに帰れないの?」と聞かれ、投げやりに「ああ、そーだよ」と答えた。
 リディは「可哀想に」とは言わなかった。代わりに「帰れるようになるまで一緒にいてあげるから、泣かないでいいよ」なんて笑いやがった。嫌味がなかったからなのか、単に俺が動揺してたからか。小娘の言葉に、妙に安心させられた。

 一度ヒステリーを起こしてからの俺は、どことなく、何となく丸くなったと思う。リディにガキだ餌だと噛み付かなくなったし、二人きりになればちょいちょい話もするようになった。進んでリディの遊び相手やって、自分でも楽しくなってたから構ってくれとちょっかい出したりもした。
 そんなこんなでひと月ばかりぬいぐるみ生活が続いていた、ある日の夜だった。ようやく魔術が使えそうな気配が感じられるようになった。試しにちまっこい術を使うと、完成はしなかったが発動しかかったりして、回復し始めているのが分かった。
 それからは毎日練習し続けた。魔気が強くなる夜、月明かりを浴びながら鈍った感覚を研ぐように、術を作っては崩しを繰り返す。
 ぬいぐるみになっているとはいえ、魔術を使えば魔気は滲み出るだろう。リディは感じているはずなのに、恐れることもなく大人しくベッドで転がりながらじっと様子を見ていた。
 座って床睨み付けながら練習していると、リディの青い目に時々銀色の光が見えた。気のせいかなとも思ったんだけど、気になって振り返ると奴はちょっと驚いた後、いつも通り普通に笑うから、何かよく分からなかった。

「ゼク〜!」
 その日はまた久々にリディの親が来ていた。見るのは三度目だったか、最悪なことに俺はメイドに洗濯されて、タオルの間に洗濯バサミで吊されているとこだった。
 とりあえず昼頃まで乾かすから取っちゃだめと放置されて、天使に脅えながら宙ぶらりんが続いていた。日光に目眩がし始めたあたりできゃあきゃあとはしゃぐガキの幻が見えて、足を思いきり引っ張られる感覚に襲われた。
(あああああっ!! 耳千切れるっ!)
 洗濯紐が飛び付いたリディの重さに弧を描き、挟まれていた俺の両耳が強烈な痛みに悲鳴をあげる。あんまりこのまんまでいたせいか、このところぬいぐるみのくせに感覚が分かるようになったんだ。耳とか腕とか、引っ張られるとマヂで普通に痛い。
 涙の幻覚でぼやけたような気がする視界に、リディの親父が見えたんで必死に絶叫を飲み込む。ったくこのガキ、痛いことはやめれって何回言や分かるんだっ! と内心で俺は罵声バリバリ。だが、耳を縫い付けてる糸が切れる前に、洗濯バサミの方が俺を手放してくれた。おかげで俺は激痛から解放され、リディは欲しかったものを抱え御機嫌だ。
「見てっ。父様がゼクにってリボンをくれたの。着けてあげるね」
(……何か、真っ赤なリボンで首を絞められてくんだけど)
 上品なワインのような深い赤には、小さな十字架の飾りが付いていて、それが金の十字架だったもんだから嫌がらせかと思った。俺は十字架が嫌いだ。金の十字架は太陽を示す神の印だからもっと嫌いだ。
 リディはリボン結びが縦になる癖があるんで、父親が首の後ろにちゃんと結び直してくれた。その間中、正面のリディに嫌っそうな顔をし続けたんだが、奴はぽかんとした顔で見上げてくるだけだった。弱点知られんのを嫌がらずに、もっと魔族の好みも教えとけば良かったかな。
 かわゆくドレスアップした俺様を抱えて御機嫌なガキを連れ、親父は森に散歩に行こうと言い出した。もちろんリディは乗馬に参戦する気だ。なんたって大好きなパパが遊んでくれるんだもんな。
 ぴらぴらな服からちょいと活動的な服に着替えて、リディはママも誘った。母親は美人だけど動物嫌いなとこがあるらしく、馬で行くと聞いて顔を引きつらせながら辞退した。

 リディのいる屋敷は中が薔薇園とか花だらけで、外は葡萄とか村の果樹園に囲われている。果樹園を挟んで村と反対側に行くと、隣村まで森と山が続いていた。森は結構好きだぜ。昼間でも薄暗いとこあるし、天使共は空の上をいくことが多いから隠れられるし。見通しの悪い鬱蒼とした樹海とか最高だ。
(うさぎとか鹿とかいたら、リディは喜ぶんだろうな。こいつ動物好きだし。あぁ、パパちゃんの目当てはそれか)
 リディとリディの父親と使用人が二人と。馬が三頭、木漏れ日が涼しい森をかぽかぽと歩いていく。少し行ったところで、先を歩いていた使用人の馬がピタリと足を止めた。
 馬は驚いたか何かで固まっているようで、よく見ると足元に黒いうさぎが同じように固まって馬を見上げていた。うさぎが新たに現れた敵、俺達の方を見てまた固まる。
(……ん? あのうさぎ、今笑わなかったか?)
 うさぎが笑うってのは妙な話なんだけど、獣面にもそれなりの表情があるんだ。わずかなもんだが獣人を見慣れた獣人はそれを見分けられる。あの黒うさぎ、驚いてはいるが、なぁんか嫌な笑い方したぞ?
 険しい顔を作り、俺はそっとリディの腕を突付く。父親はリディがうさぎに喜ぶだろうと、指差して「ほらうさぎさんだよ」とか微笑んでやがる。だから、動きはちょっと大きくなったが、あれはいい感じがしないと必死に訴えた。
(リディ! あいつきっと魔族だっ! 俺には分かる! こんな薄暗いとこじゃ昼間だって俺達は動けるんだ! すぐ仲間呼んでかかってくるぞっ!?)
 いくらこいつが俺レベルを吹っ飛ばせる聖気を持ってるとはいえ、後ろに人を庇いながら数を相手にするなんて無茶だ。ましてガキに小難しい戦略戦法を考えられるとは思えねぇし、相手の動きを読むとか無理そうだし。
 パパちゃんのセリフがウザイと内心でおもっきし舌打ちしながら、それでも声に出さずリディを突付き続けた。だが、普段ならこれだけやって気付かないはずないリディが、ぼーっとして全然反応しない。父親も様子がおかしいと思ったのか、赤みの強い金髪を撫でて、青い瞳を覗き込んだりしてる。
「どうしたリディア?」
(リディっ? まさか、催眠かっ? 暗示でも掛けられてんじゃっ?)
 時々、器用な魔族は相手を惑わす魔術を使う。攻撃には大して役に立たないから、でかい攻撃技がある俺なんかは練習もしたことないが……これは厄介なのに鉢合わせたかっ?
 うさぎが俺の動揺を悟ったかのようにひょこんと跳ねた。その瞬間、焦点のずれて曇った目がぱちりと瞬き、リディは手足をばたつかせて暴れ出した。
「あぁ、うさぎが逃げてしまうよリディア。馬から下りたいのかい?」
 手と一緒に振り回されて見逃しそうだったが、逃げたように見えたうさぎが向こうで笑いながら、確かに笑いながらこいつを呼んでやがった。
(あの野郎、リディが旨い人間だって気付いてんだな!? 明らかに食おうと思ってんだろ! うさぎが牙なんかちらつかせてんじゃねぇっ!)
「リディ待てよっ! あれはうさぎじゃねぇんだ! 親父のそば離れんな、戻れっ!」
 馬を下りてからリディは急に走り出した。父親も驚いて馬を降りたが、何故だかすぐに追ってはこなかった。くそぅ、「思った通り」になってる。あのうさぎが付いて来いって催眠かけたんだ。だからリディは何言っても聞く気配がない。そして、足止めされた親父から離れどんどん森の奥へと進む。
「あぁ……あの野郎まぢだな。空間まで捻じ曲げやがって、丁寧に退路消してくれちゃってんじゃねぇか。こりゃパパちゃん当分追ってこれないだろうな」
 駆けていくリディの肩によじ登り後ろを見ると、時々景色がぱっと切り替わる。俺らが別の空間に飛ばされてんのか、向こうがあそこを通ったら飛ぶように仕掛けたか。ったく、面倒だな。今の俺で何とか出来るかな。守れるかな。
(……守る? いつか食う奴を、守る?)
 落ちないように掴んでた金髪を見て、「食うのか? 食えるのか?」なんてことを考えた。今は食える状況じゃないから、俺の獲物に手ぇ出すなってこと、だよな。食うために、リディのそばにへばり付いてんだよな俺。
「違う。何か、食える気がしねぇ」
 黒うさぎはちらちらと振り返り、ちょっと顔をしかめたようだった。俺がただのぬいぐるみのくまじゃないって気付いたか? 仲間が出てくる気配はないが、そろそろ次を仕掛けてくるだろう。俺はどう動こうか。
 リディが付けてくれたリボンを、金の十字架を握って「今だけ」と思った。今だけでいい。ちょっとだけ、元の俺に戻りたい。そしたらあの野郎を追っ払える。
 木の根につまづくようにして、リディの足が止まった。前では黒うさぎもぴたりと止まって、こっちを無表情に見ている。黒い後ろ足がたんっと草を踏んで、それを合図にリディが正気を取り戻した。
「……父様? ……ここどこ?」
「お。戻ったか? リディ、いいか? よ〜く聞けよ? お前はパパとはぐれたんだ。だからこれからパパのとこに帰らなきゃなんねぇ」
 きょろきょろと不安そうにするガキに精一杯優しく、静かに声をかける。リディはすぐ気付いて、俺が喋ってるからには本当に人がそばにいないんだと、素早く正しく理解してくれた。
「お前はあそこにいるうさぎ追っかけてきちまったんだ。だけどそれ覚えてないだろ?」
「うん」
「あの黒うさぎな、俺と同じ魔族なんだ。魔法が使えるから、ちょっと記憶が飛んでるかもしれない。でも気にすんな。難しいだろ? 分かんなくてもいい。ただこれは分かってくれ、あいつはお前を食おうと思ってる。何とか逃げなくちゃなんねぇんだ」
「ゼクもリディを食べるんでしょ?」
「ん? あぁ、そのつもりだった。だが、とりあえずここはお前を助ける方でいく。横取りなんか許さねぇ。逃がしてやるから、言うこと聞けよ?」
(こいつを食うか食わないか、食えるのか考えるのは後でいい。どれにしたってこいつは俺のもんだ)
 相手の技量が分からない、俺がどれくらい殺り合えるのかも不確かすぎる。でも、やらない訳にはいかない。リディの肩に立ち上がって、ぷるぷると震え始めたうさぎを睨み付ける。
「オマエ、魔族ナノカ? タダノ人形デハワイナ?」
「片言の人語を喋る程度か、たかが知れるな。さっさと失せろよ。お前なんかにリディは勿体ねぇ」
 ぞぞっと影に溶けた闇が騒ぎ、黒うさぎを包んでいく。うねる黒い塊を前にリディは脅え、よろけながら後退った。俺はくるくるした金髪を布の爪で撫でて、こっちを向いた涙目に「俺のことは怖がんないくせに変なの」と笑ってやった。「ゼクのマゾクとあのマゾクは違うもん」と返されて、何が違うんだかなと首を捻っちまった。人間はよく分からない。ガキはもっとよく分からない。
 ぴょいっと肩から飛び下りて、短い腕を腰の横で交差させる。正直、状況が普段と違いすぎるからどんな小物にも慎重になるしかない。練習では成功したけど、いつも通り魔術が使えるといいな。
 黒い塊がぬらりと縦に伸び上がり、不細工で微妙な人型になった。腕が妙に長い四這いの猿みたいだ。こいつ、獣人か魔獣か分かんねぇよ。まったくもって、不完全な半端もんだな。
「人間ガ欲シイ」
「この程度の聖気なら食うのは簡単で旨いし、自分の力も上がるって? 考えることは同じか。だけど、お前にはちょっときついんじゃねぇの。こいつ思った以上にやるからな、やめとけば?」
「ソウ言ウオ前は食エナカッタノダナ。ナラ大人シク退ケ。私ガ代ワリに食ッテヤル」
 全身は黒いまま、でも毛はなくてつるつるな肌の、めちゃくちゃキモイ奴がまた嫌な笑いを浮かべやがった。口と同じくらいデカイ赤いだけの目が、にんまりと三日月型になる。
 俺の後ろで、怖いからか気味が悪いからか、リディがしゃっくりあげて泣き始めた。あーそりゃそうだよな、あいつ何か生理的にアレだよな。
 食えねぇことを図星指されたのに、自分でも分かったことだ、そう頭にくるもんじゃなかった。この程度の挑発より、リディの反応の方が気になる。こんなに泣かせやがって、ただじゃ済まさねぇ。
「人間ガ欲シイ。旨ソウデ可愛イ娘。泣イテイル」
(……ホントにうぜぇなあいつっ! そーゆー目でリディを見んじゃねぇよっ! これ以上泣かせんな!)
 頭の中でぷちーんと音がした。気が付けば走り出していて、ガラの悪い不良のように「おらぁっ!」なんて殴りかかっていた。だけど、人間の大人ほどある奴に手で持てる小さな人形が、まともな攻撃なんかできるはずない。黒い腕が関節を無視してしなり、俺の毛むくじゃらの体をあっさりと弾く。
 分かってたさ。リディにすら叩き落とされるんだ。それでも黙ってらんないし、じっとしてらんねぇんだ。リディからあいつの目を引き剥がしたかった。だが、衝動的に動きそのままやられたことで、俺は致命的な隙を作っちまった。
 黒い影のような墨のようなものが、水みたくうねりリディへ迫る。涙に濡れた青い目が、恐怖と絶望を映しよく知った色に変わった。ああ、いつもはアレを旨そうだと思うのに、今は喉が締まっていくだけだった。
 滑るように地を這い、奴の腕の先が赤みの強い金髪に触れる。地に伏した俺は喉を裂かんばかりの声で叫んでいた。腹の中で黒がうずく。手足、爪がざわめき熱くなる。
「止めろ!!」
 急に体が重くなった気がした。だが、それは一瞬のこと。すぐ風に乗る羽根のように、俺は銀光へと姿を変えた。薄暗い森に落ちる光を弾きながら、白銀の爪で奴の腕を切り裂く。と同時に頭を沈め、黒い腹に額を当てて思いきり振り上げる。
 突然の頭突きに何の反応も出来ず、奴はさっきの俺みたく吹っ飛ぶ。木に叩き付けられたのを視界の隅にとらえ、その腕がぼろぼろと崩れたのを見た。
 ああいうの、見たことがあるぞ。天使に浄化される魔族の体はああやって崩れるんだ。リディの聖気に奴の方が当てられたな。ははっ、ざまぁねぇや。
 俺はすぐにリディの髪へ鼻で触れた。思った通り、リディが毒された様子はないし、魔に当てられた感じもない。しかも、俺は相変わらずぬいぐるみ効果なのか、獣姿になっても聖気にやられる気配がない。好都合にも程がある。嬉しい限りだぜ。
「……ぅうぁあんっ」
 関を切ったようにピーピー泣き出したガキに、俺はうるせぇなと片耳を折った。すぐここから離れよう。いつまでもこの姿でいられるほど魔力が回復してるわけじゃない。うまいこと変化できているうちに、こいつをパパちゃんのとこまで連れてかねぇと。
 怒りと良く似た熱いもんが体の中で暴れてるけど、奴を噛み殺したいのと一緒に抑え込む。黒斑紋のある銀の毛をざわりと逆立て、一声吠えて奴を威嚇する。すぐ横でびくりと身を強張らせて、ガキがぽかんとした目でこっちを見上げてきた。
(ちょっと怖いかもしんねぇけど、我慢しろよなっ。痛くはしねぇからっ)
 目の前に立たれただけでもそれなりに気圧されるはずの大型獣に、リディはあんぐと細っこい腰を銜えられる。俺がゼクトだって分かってるかどうか、今一つ表情では分かんないんだけど、ぽろりと溜っていた涙が落ちた後はもう泣こうとしなかった。
 リディは呆然としたまま、走り出して揺れるのを支えようとヒゲを何本か握っている。ちょっとくすぐったかったけど、それで大人しくしてくれるならと無視する。
 鼻をひく付かせパパの匂いを探した。何回も飛ばされたが結局同じ森の中らしい。向こうもリディを探して移動しているようだな。追いかけるより鉢合わせてくれるといいな、早く帰してやりたい。
 爪を立てて風のように駆けていく。木漏れ日の間を走る銀は目立つだろうが、追ってきた気配は遠退くばかりだ。俺は見た目はでかいけど、これで駿足の持ち主だからな。
 落ちない程度に力を加減して、俺は牙と牙の間に細い体を銜えていた。でも、痛くないかなと心配で、しょっちゅうリディばっかり見ていた。リディはといえば、ぼーっとした感じが抜けなくて、完全に放心状態だ。でも、俺を怖がって脅える様子はない。もう食べられるんだって諦めてんのか?
「ゼク……」
 何だかぶーたれた顔と声で呼ばれた。この姿の時は喋れないから、喉を鳴らして答えてみる。リディはきょとんと目を丸くしてこっちを見上げたが、やっぱり俺だって分かってないのか、寂しそうにまた俯いた。
 ぬいぐるみを落したと思ってショック受けてるのか? でもな、本当はもっと食われるんじゃないかってとこを心配して欲しいよな。この姿は一番最初に見てるはずだ、怖い奴だろ?
 走り続けていると黒い奴の気配がうっすら近付いてきた。空間移動使って追い付こうってんだな、でも今更遅いぜ。馬の匂いが濃くなり、この耳に鼻息が聞こえるとこまできている。リディを帰したらきっちり相手してやるよ。
 四肢を伸ばして大きく跳ぶ。ぽんっと間抜けな音をさせながら、俺達は白い煙に包まれた。リディが驚いて手足をばたつかせヒゲを引っ張る。
「きゃーっ!」
「痛てぇよっ止めろっ! ったく、もうすぐだから大人しくしてなっ!」
 煙を割って飛び出したのは銀髪に赤い目、白い肌に黒い爪の美青年……つまり俺だ。ガキを両腕に抱えて身軽に木の間をすり抜ける。父親の前に豹のまま飛び出すわけにはいかないだろう。いくら森の中だからってここらにゃ銀色の豹なんか住んでねぇし、娘が齧られてるなんて視覚的にも精神的にも痛すぎる。
 リディは突然化けた俺にまた呆然となる。そこへヒゲを引っ張られた腹いせでつい怒鳴っちまった。何がなんだか分かんない状況下で、急に現れた見知らぬ男に怒鳴られて、当然リディはうるうるし始める。ああ、俺が悪いのは分かる! 分かるけど我慢してくれ!
 人型に化けた衝撃でヒゲが抜けて、リディの手の中に残っていた。目を潤ませながらもそれを手はなさないガキに溜め息を吐き、ぎゅっと抱き直す。怒りきれないどころか、被害者なのに抗議したことに罪悪感なんて感じた。くそぅ。
 魔力が尽きかけているせいで視界がぼやけはじめた。体力は体に、魔力は精神に疲れを出す。もう耳鳴りも頭痛も酷くなってきて、足元もふらふらだ。それでも、俺は人間には出来ない大ジャンプで草むらを飛び越える。
 少し幅のある小道に出た。耳を澄ますまでもなく馬の足音が聞こえる。立ち止まって下ろしてやれば、リディもすぐに気付いて顔を向けた。
「……父様!」
 涙に濡れた瞳が希望を見付け、嬉しそうにきらきら輝く。俺は乱れた呼吸をそのままに一歩二歩とあとずさった。これでリディはうちへ帰れる。森から出ればまだ日は高いから安全だろう。
 嫌な汗を乱暴に袖で拭い、元来た茂みに向かう。黒い気配が大分近付いてきていた。だが、人が集まろうとしているのを感じ躊躇っているのか、ぐんとスピードが落ちた。
 そのまま諦めてくんねぇかな。この状態で相手しに行くの、ものすごく無謀な気がしてきたんだけど。
「……あ?」
 いつ寄ってきたのか気付かなかったな。頼りないくらいの足取りを、リディの小さな手が引き留めてる。ぐちゃぐちゃとはみ出しベルトを隠すシャツの裾を、ちっこい手が握っている。見ればリディはじっと俺を見上げて不安そうな顔をしていた。
「何だよ。知らない人には付いて行くなって、パパに習ってねぇのか?」
 きゅっと唇を噛んでリディは俯いた。まるでオレがいじめてるみたいだ。
 特別怖がる素振りはなかったけど、懐いているとも言いがたい。何がしたいのかよく分からなくて、俺はリディの手を何気なしに引き剥がしてしまった。小さく「あ」と悲しそうな声が聞こえたが、父親の姿が迫っていたし逃げるように歩き出す。
「もぅパパとはぐれんなよ? さっさと家帰れ」
 銀の髪を掻き回しながら、俺は森で動かなくなった奴の方に向かう。
(ちくしょう、帰る気はないのか。リディの後追われるわけにはいかねぇからな、やるしかないか)
 背後で人の気配が増える。やってきた父親がリディを見付け、馬から下りたようだった。突然走り去った娘が無事に帰ってきて安心したんだろう。パパちゃんは「急にいなくなったらだめじゃないか」と叱りながらも嬉しそうな声をしていた。
 ただでさえ親としては心配だったんだろうに、肺の悪いリディが走って消えたもんだから使用人と一緒になってみんなばたついてる。これでもうリディは大丈夫だと、どこかほっとした感じで息を吐いた。
 一度振り返ると、父親がこっちを見ていた。目が合う。
 迷子を届けた善い人に見えただろうか。可愛い娘を拐う暴漢に疑われただろうか。目を細めた父親に、俺はにやりと笑ってやった。パパの様子にリディがこっちを振り返ったんで、手を振ってから森に入った。もう振り返ってはやらない。

 木の間から道が見えなくなり、同じ距離を倍歩く。見つめる先に黒いものが見えた。てくてく歩く程度だったのを、早歩き、小走り、全力ダッシュにスピードアップする。右手をぶんっと横に振って爪を伸ばし、それを振りかざして奴に飛びかかった。
 頭が痛い。やけに寒い。目はぼやけてるし、関節って関節が馬鹿みたいに軋んでるし。もう先が長くないのは分かってたから、がむしゃらにでもなってやるしかなかった。
 突くような一撃目はかわされた。黒い影の端を掠め、引き千切られたカスが黒く霧散する。すぐ奴が逃げた方へ爪を振るが、深くは入らない。
「ドウシタ? コノ程度カ?」
「しっかり当たってるくせに喚くんじゃねぇよ」
 赤く熟れた目が横長になって、山なりの弧を描く。ムカつくなぁ。普段なら即効で殺るのに、今じゃ減らず口しか叩けねぇなんて、情けないよなぁ。
 片腕で猿みたいに木にへばり付いて、上から俺を見下ろしている。奴は上機嫌に笑いそこから飛んだ。黒い手に五本以上の指が並んでて、腕は片方千切れてて、どこまでも不格好なヤツだと思う。
 ヤツの一閃も初撃は楽に避けられる。その後からが腕の見せどころだ。
「あ、ぁ?」
 奴を見上げながら、ヒラリとかわしたはずだった。あわよくば突っ込んでくる馬鹿に膝でも入れてやろうかと思った。なのに、急にその膝が笑いやがって、その場に崩れ落ちた俺はへたりと座っちまう。
 体から力が抜けて、横へ傾いていく。黒い手が延びてくるのが、奴が満面の笑みなんて浮かべてんのが、全部赤い目に映り込む。あ、俺は殺られんのかと、初めて真剣に思えた。
「娘ハモラウヨ」
 横向きに倒れていく中で俺は、ほとんど無意識に笑っていた。殺られんのかとは思ったが、俺がただで殺られるなんてアリか? いやぁナシだろ。
「ざけんじゃねぇ。リディは俺んだ」
 意外なほど素早く手が地を捕らえ、体も軽々と宙を舞った。足が地面に着くと同時に腕をくねらせ、爪を立てながら奴の首を掴む。電光石火の早業に奴は追い付けず、俺の手首に掴まりながら目を真ん丸にしてる。いい格好じゃねぇのよ。
「クッ! サッサト死ネッ! コノ死ニ損イ!」
 にやりと笑うとそれが気に食わなかったらしい。黒い腕を目一杯に振り回して俺の腕や顔、胸まで引っ掻いてくる。いくつかは深く入った。血が飛び服が赤くなる。
 おかしいな。痛みが妙に気持ち良くなってきた。落ちそうになる腕を叱咤して、最後だからもう少しと力を込めてやる。
(この痛み、お前にも味合わせてやるよ)
 ギャーギャーうるさいのが絞めていくと静かになって、空気が漏れる細い音に変わった。振り回しいてた腕も大人しくなる。肉に爪が食い込み、骨だろう硬いものに指が触る。だが、名残惜しいことに骨を折ることも握り潰すこともできなかった。
「くそ……」
 腕が落ち体も倒れる。半分死にかかってた奴が指を引き剥がして逃げた。咳き込んでいるのが聞こえる。ったく丈夫な奴、惜しかったんだがなぁ。
 ぽんっと間抜けな音がして、俺の体は白い煙に包まれた。普段獣から人に化けたりするのと同じだが、意思が付いてきてない。獣人の体が勝手に変化するなんてことはないから、魔力切れでくまに戻ったってか。
 思った通り体が縮み、見えた手はもじゃもじゃになっていた。悪態を吐きながら、黒い奴を探す。背後に気配を感じ振り返った。
 赤い目がはち切れんばかりに見開かれている。こりゃぶちギレてんな。かぱりと口がでかく割れ、並んだ牙から唾を飛ばしながら奴は吠えた。転がっているぬいぐるみ相手に大袈裟な勢いで飛びかかり、思いきり爪を立ててくる。
 体がばらばらになると思った。実際に片腕もげたし、綿だって飛んだ。くまと馴染みすぎた俺は、本物の痛みに絶叫する。血も肉も骨もないってのに、熱いのと似た感覚は生々しい。
 奴の爪が首にかかり、横に薙払われる。だが、くま顔が胴体から千切れて飛ぶ、ということにはならなかった。爪の感触はあったのに、それがしゅわっと消えた。
「なん、だ?」
 ぼやけた視界に、泡を吹いて溶けていく爪があった。俺は何もしてねぇ。何もしてねぇけど溶解は広がり続け、あっという間に奴の腕まで溶かし始める。今度は奴の方が痛みに叫んだ。
 口開けて唖然とする俺の首で、リディがくれたリボン……にぶら下がっている、あの嫌味な金の十字架が光った。木漏れ日を拾った程度のちかちかが、どんどん強くなって眩しさに目が開かなくなる。
(こいつっ! こんな時に何光ってんだっ? まさか天使が近くにいるんじゃ!?)
 あまりの強さに目を焼かれそうだった。頭痛も激しくなって頭が割れそうだし、身体中部品が欠けてて痛覚は振り切れてるし、喉が忌々しい十字架のせいか痛熱いし。こんな死にそうな時に追い討ちかけられたらどうする事もできねぇぞ。
 金の光は波を作りながら奴を遠ざけていく。だが、一波ごとに光は弱くなった。奴が遠ざかったからか?
(天使の気配はない、な。じゃあ何で光ったんだ?)
 膝を着き、奴の様子を伺いながら頼りない動きで辺りを見回す。残っている手でリボンを摘まみ十字架を見ると、眩い光の粒を吐いてはいたが、呼吸するかのように今度はそれを自分で吸っていた。じんわりと光が消えていく。
 呆けた顔でただただ変化を見守る。だが、十字架は俺に戸惑っている暇はくれなかった。黒うさぎの魔族は、十字架に容赦されなかった。
 ぷつりと光が消えたと思った後、一瞬の静寂をおいて、十字架は強烈な一波を放つ。まるで神の業のような、聖気の嵐が起こる。
「アアアァアァ!?」
 馬鹿みたいな声をあげて奴が光に呑まれた。黒が金に染まって声も途切れた。手負いの奴がこの一波に耐えられるとは思えない。殺られる寸前だった俺にしてみればとんでもラッキーだったが、こっちも魔族だ、ひとごとじゃねぇ。
 くまの時はリディの聖気も平気だった。だが、今回のこれはくまの特殊能力も完全には効いてない。喉からもろに強い光を受け、その十字をくっ付けたまま吹っ飛ぶ。首の前にあったもんだから後ろに弾かれ、何か硬いものに激突、そのまま気を失った。
 体が落ちるのは分かった。焼けるような痛みが引いていくのも分かった。しばらく真っ暗で何もなかったが、突然温かいものに包まれたような感覚がして、それが無性に心地良かった。

 腕の辺りがちくちくと痛い。本当は身体中が痛かったんだけど、特に腕が痛い。刺されているみたいだ。
「ちゃんと直る?」
「ええ、お嬢様。直りますよ。後でお洗濯して、またリボンも付けてあげましょう?」
「うん! 今度はね、青いリボン付けてあげるの」
 きゃっきゃとはしゃぐ小娘の声と、柔らかい女の声に俺は目を見開いた。ぱちーっと開いたんだが、ぬいぐるみのボタンみたいな目には変化がないのか、単純にどんくさい奴らだからか、ガキ共は少しも気付かない。
(はっ!? 何だ!? 何がどーなったっ!?)
 身を強張らせたのが幸いして、自然とぬいぐるみのふりができていた。固まった状態で周囲をぱっと見てみると、リディの部屋の中央、俺は毛足の長い絨毯にいるらしかった。正確にはそこに座っているメイドの手の中だ。千切れた腕を胴体に縫い付けられている。
(痛ぇと思ったら針で刺されてんじゃねぇかっ)
 もう終わるとこだったようで、耳のそばでパチンとはさみが糸を切る。続いて逆の腕にも針を刺された。ああ、引っ掻かれてボロボロだもんなと、げんなり顔で痛みに耐える。
 そばではリディがずっとうつ伏せて作業を見ていた。しばらく見ていると俺が起きたことに気付いたようで、ぽかんと口を開けてこっちを見るようになった。メイドが糸を出している間にニヤリと笑ってみる。リディは脅えることなく嬉しそうに笑い返してきた。
 俺は光に当てられて吹っ飛んだのに生きていた。ダメージはそれなりにあったが聖気に当てられた分はほとんどなくて、あの状態でも多少はくまの特殊能力が効いていたことを後になって知った。防ぎきれなくても魔族を消し滅ぼす光を浴びて生きてられたんだ、十分どころか大感謝だろう。
 黒いうさぎモドキに裂かれた体は、リディが何か理由をつけてメイドに頼み、直してもらえた。ついでに洗濯されて、干されて、洋服ブラシなんかで撫でられて、ほとんど元通りだ。青いリボンってのも付けられた。
 リディに抱かれて庭に連れ出される。太陽が眩しくて嫌だったが、奴は薔薇の木のそばに座り込んで俺を木陰に置いた。
「誰もいないよゼク」
「……あぁ、そうだな」
 よっこいせと立ち上がり準備体操みたいなことをして、本当に何ともないのかと体を調べる。足を見た時にきらりと金色が見えた。まだ首から十字架がぶら下がってやがる。
 汚いものでも摘むようにして、金の十字架を指に挟む。目障りだし気分も悪くなるが、こいつがなければやばかったんだよな。
「ゼクは十字架が嫌い?」
「あ? あぁ、金で正位置のやつは嫌いだ。銀ならまだいいんだがな」
「せーいち? ……えっと、あのね、悪魔は十字架が嫌いだって父様が教えてくれたの。あとね、十字架を持っていると神様に守ってもらえるんだって。ゼクのことも神様に守って欲しいの。だから、持ってて? 銀色ならいい?」
 少し申し訳なさそうな顔で一生懸命に説明された。リディは時々頭が弱くなるんだよな。俺が悪魔と似たようなもんだって分かっいてないらしい。くまも銀の豹も銀髪の男も、全部俺なんだけどなぁ。くま以外はリディを襲った敵のはずなんだがなぁ。
 しょーがねーなと、くにゃくにゃの爪で十字架を弾き、大人しく芝生に座った。ガキは俺の言葉に満足したようで、お礼と笑顔をくれる。何となくむず痒いんで、こてんと仰向けに倒れて誤魔化した。
「ったく! まだ魔界に帰れねぇのか! いつになったら戻れるんだちくしょうっ!」
 大口開けて吠えた。まぁ本音だ。ホントのこと言えば、多分帰るだけの魔力はもう回復してたんだろう。獣姿になれた時点ですぐ魔界へ飛べば、多分帰れていた。だけど、俺はリディをほっとけなかった。
 こいつのそばが何となく楽しくて、帰るのに必死じゃなくなっていたから気付かなかった。ここに居付いてあんな場面に直面して馬鹿やって、また帰れなくなってる。
 叫んだ後でぼーっと動かなくなると、リディに心配そうに顔を覗き込まれた。何でお前がそんな困った顔するんだよと思う。別にリディが悪い訳じゃない。俺が自分でこの結果を選んだんだ。もっと最悪の予定だったのが、この程度で済んでるのはリディの十字架のおかげだってのに。
「ごめんね」
「何が? 謝られるよーなことなんざされてねぇよ。お前が探して拾ってきてくれたんだろ? さっさと帰れって言ったのにな。格好付けといてこのざまだ。俺の方が礼言わなきゃなんねぇよ」
 ふてくされて言うと、リディはきょとんとしてからふふっなんて笑ってくれた。飴色の髪が日に透けて、本当に飴細工みたいで……そんな可愛く笑われたら、落ちそうになる。
 いつかと似てたが、でも前回より喉のつかえは苦しくなかった。首絞められてるような感じは切なさと少し似てる。こんなこと滅多にないもんだから、俺はぽかんと口開いてその顔を見上げていた。
「ゼク、もっとおうちにいていいよ。ずっとリディと遊んでて?」
「……あのなぁ、魔族ってのは悪魔みたいなもんなんだ。俺達は人間に悪いことして喜ぶ。そばにいればお前のことも不幸にする。何かあったらパパが悲しむだろ? 俺だってお前を食いにきてたんだ。危ない奴なんだから、さっさと追い出した方がいいと思うぜ? 弱って人形でいる間にどっか捨ててくるとか……」
「やだ。捨てない」
「また……お前はそーやって即答する。あぁ、アヤナはお気に入りだったんだっけ。だからわざわざ拾ってきたんだもんな」
 何でか俺はこの屋敷から、リディのそばから離れることを考えていた。食えるか食えないかと聞かれたら、もぅ食えるわけがなかった。食えない獲物はもう獲物じゃない。なら、そばに貼り付く理由だってない。
 弱ってたとこを大事にされて、何だかんだ楽しく遊んでもらって。この十字架、俺のことも神様に守って欲しいなんてよ、とどめ刺された気分だ。こいつには敵わねぇ。離れられなくなる前に、不幸に巻き込む前に離れねぇと。きっと気が狂うような何かが起きる。
 自分がどうにかなりそうで怖いのもそうだけど、綺麗なこの天使を汚しちまいそうで嫌だった。それが魔族の性分からかけ離れていることには、目を瞑った。
 リディは「アヤナじゃなくてもゼクだから連れて帰ってきたの」と、訳の分からないことで口を尖らせる。俺はひっくり返ったまま吹き出した。俺じゃなけりゃ拾ってこなかったのか? 本当にお前は、俺を何だと思ってんだよ。
「笑わないでゼク。リディはゼクのこと大好きだよ? ゼクだってリディのこと守ってくれたでしょ? ……一番最初は酷いことしてごめんね。急に出てきてびっくりしたの。ちょっとゼクの歯が怖かったの」
「は? 何だと? 歯っ? おまっ、分かってたのかっ?」
 リディは目を丸くしてまたきょとんとしている。慌てて飛び起き、何が? と首を傾げるガキに飛びかかった。役立たずな爪で必死に胸ぐらを掴み、地の底から響くような陰鬱さも混ざった声で話す。
「お前、歯が怖かったって、銀色のデカイ豹が俺なの分かってたんだな? 最初に食われそうになったのに、あんな大事に毎日抱えて歩いてたのか? しかも、お守りまで持たせて?」
「うん。ゼクは一杯遊んでくれたし、全然食べようとしなかったもん」
「何だとっ!? この馬鹿すぐほだされてっ! お前いつか絶対魔族に騙されて酷い目に遇うぞっ!? 俺がいなけりゃあのまま黒うさぎに食われてただろうし! 馬鹿だから目を離すと危ない奴に付いてきそうだし!」
「じゃあ目を離さないで。ちゃんと見ててゼク」
 すぐ間近でにっこりとリディが微笑んだ。噛み付かんばかりに牙剥いて吠えてたのに、こいつの青い目はその牙を簡単に抜いていく。小さい手が延びてきて、顔を両手で挟まれる。
(おい、こんな小さな手、簡単に振り払えるだろ?)
 ―――でも、放さないでくれって、俺の方がもうほだされてて……。
 固まったまま、気付いたら唇を噛んでいた。くま顔だから実際に噛めてはいなかったかもしれないが、俺は言いようのない苦しさに耐えられなかった。
「リディ、確かに俺はお前のこともう食おうとは思ってない。でも、せっかく神に愛されて強い聖気を持ってんのに、魔族なんか側に置くもんじゃねぇよ。お前が汚れちまう」
「何で汚れるの? きれいきれいしてるよ」
「馬鹿。洗っても落ちない汚れってのもあんだよ。俺達は世界の汚点だ。魂からもう真っ黒なんだとよ。それがうつるって言ったんだ」
「リディはゼクはきれいだと思うよ」
 リディがそう言うと、頬を包んでいた手が急に温かく感じた。ぴりぴりと頬がむず痒くなって、体全体がぞわりと粟立つ。
 何かおかしいと気付いた時にはすでにことは終わっていて、俺は芝生に膝を着いてガキの前で正座していた。視線があっという間にリディを見下ろすようになってるし、すぐ目に入る手も布の爪なんかなくて、人のと変わらない手に戻っていた。
 自分の意思と関係なく、魔力も回復してない体が元に戻るなんて、一体どういうことだ? リディから手を離して、呆気に取られた顔でまじまじと自分の掌を見る。目の前で、リディがひょいと立ち上がった。
「やっぱりきれい」
 俺の少し長めの銀髪を撫でながら、青い瞳がじっと顔を覗き込んでくる。何も言えないまま座り込んでいると、奴は耳のそばの髪をいじりだした。
(リディが元に戻したのか? こんなこと出来るのか?)
 右左に不細工な三編みを作って、嬉しそうにリディは笑う。そして、座った俺の首に腕を回し、背中に張り付いてきた。
 ぬいぐるみの時もべたべた触られていたし、思いっきり抱き付かれたし、絞め殺されんじゃないかとさえ思ったもんだ。だけど、あの時と違ってふわりと優しくて、あの時にはほとんど感じなかった温もりがある。あぁ、人間って温かいもんだったっけと、張り付いて離れないリディの頭に頭をくっつけて、ぼんやりと思った。
「やっぱ敵わねぇ。手遅れだったなぁ」
 危ない目に遭うかもしれない、迷惑があるかもしれない。人間の格好してても人じゃないし、デカイ獣になるし。……それ全部分かってるのに、ここにいてくれって言うのか。
「リディ、本当に、俺にいて欲しいのか?」
「うん」
 近くにある小さな耳へ唇を寄せ、確かめるようにそっと囁く。こくんと頷いて答え、「帰れるまでじゃなくて、ずっといて」と言葉が続いた。手を伸ばし飴色を指に絡め、俺は血のように赤い目を閉じる。
「じゃあ条件がある。魔族は対価分の働きは保証する。ここにいてやる代わりに、お前に尽し、命をかけて守る代わりに、リディ、お前の守護が欲しい。魔族がもたらす災いからはちゃんと守るよ。だから、天使共にもし出くわしたりしたら、『これは契約を交した下僕だ』とでも言って俺を庇って欲しい。俺は天使がだめなんだ。奴らの属性を持つお前なら出来るから、俺を光から守ってくれ。……あと、な」
 ちょっと言うのを躊躇って、頬を爪でかりかりと掻きながら口ごもる。首にすがっていたガキは手を離し、座り込んでいる俺の前に膝を着いた。首を傾げられる。
「なに?」
「ん……いつも笑ってて欲しいのと……その……今みたいに時々くっついてくれないか? なんて」
 言いながら、自分で何言ってんだかなぁと髪掻き回して、思いっきり目をそらした。魔族にはガキは鬱陶しいとか、煩いとか、避けるべき対象だって奴も多いのに、リディと関わるようになってから子供ってのがその、俺は可愛いと思うようになったみたいだ。いや、可愛いのはリディだけだけど。
 くまの時はこいつの温もりはほとんど分からなかったし、魔族はどれだけじゃれ合ってもそんなもん感じない。初めての温かさをもっと手にしたい、独り占めしたいと、不覚にも思ってしまった。持って帰れるものじゃないけど、俺がここに居ることで得られるなら、天使がごろつく世界でも居着いてやろうと思えた。まったく、どうかしてる。
 結構な我が儘を言ってる。一つ与える代わりに、いくつ求めてるんだ。詐欺だ。でも、悪い条件じゃねぇだろ? って聞いてて、リディはあっさりと簡単に、いつも通りに即答してくれる。眩しいくらいの笑顔が俺を見上げてくる。
 答えはもちろん「うん」だ。「やだ」じゃなくて、本当に良かった。

(あー……マヂ眩しい)
 日光が体中に刺さって死にそうだ。カーテンが全開だし、相変わらずベッドにほっぽられてるし、メイドがガキを着替えさせてるから呻くこともできないし。
 とりあえず、目がやられそうだからそっとうつ伏せになる。できれば日陰まで這っていきたいが、今日のとこはダルいから大人しくしてよう。
(背中が暑い……。暖かいと暑いはかなり違うよなぁ。暖かいのは抱かれてる時思い出すからいいけど、これは死ぬって。毛、燃えてんじゃねぇかな)
 リディのそばに居着くことになって何日経っただろう。あの時は人の姿になれたが、やっぱりリディの聖気をうまいこと吸って、その分で変身出来ていただけだった。と言うか、リディがあの姿を望んだからああなっていただけらしい。
 あの後、リディを離して「余程魔族に敏感じゃなけりゃそこらの人間は俺に気付かないだろ。この姿の方が気楽でいいや」なんてタカをくくって笑ってたら、あっけなくくまに戻っちまった。しかも自力では人型にも獣型にも戻れない。
 俺自身の魔力はちっとも回復してこねぇ。少しなら魔術も使えるみたいだけど、すぐ使い切っちまうから迂濶に使えねぇ。ただ、どういう訳かリディの聖気を吸い俺の魔力として使えるようになった。だから、二人でいれば何か起きても怖くはなかった。
「ゼクっごはんだよっ!」
 あぁ、今日もひらひらふわふわなのが満面の笑みで走ってくる。確かに前はウザイかなとも思っていたけど、今は喜んで迎えることができる。魔族の仲間が今の俺を見たら、完全に病気だって言われるな。でも、好きなもの囲って好きなようにしてるんだ、人間を飼い馴らそうとするのは魔族っぽいと思うんだけどなぁ? 今のとこ依存してるのはリディの方ってことになってるし?
「今日はサラダにたまごにトーストとミルクと……」
 教えられた普段とそう変わらないメニューを、黙ってぬいぐるみやってる俺にも教えてくれる。メイドがドアを閉めて後ろ向いた時にぼそりと呟いてやる。
「サラダか、トマトも食えよ」
「ぷー。トマトは嫌いっ」
「食えよ。使用人だか誰だかが一生懸命作ってんだろうからな」
 意地悪を言うと大体むくれるが、もっともな意見でさらに一言言うとリディは黙る。こいつにくまとして連れ回されて大分経つから、癖も好みも把握してるんだ。逆に俺もかなり深いとこまで掴まれているが、それは結構気持ち良いから気にならない。弱味握られるのは嬉しいことじゃないはずだけど、おかしいんだよな。
 何だかんだで俺の不幸な生活は幸福な生活に変わりつつあった。時々外に行って出会う仲間からは哀れまれるけど、俺は奴らが持たないものを持ってるって優越を感じている。
 さて、朝飯食ったら勉強の時間があって、午後はまたピアノでもやるんだろう。でかいグランドピアノの上に置かれてそれ聞いて、おやつの後からリディは俺一人のもんだ。今日は何して遊んでやろうかな。

−終−

2009.10.12(月)


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